アドラー心理学『嫌われる勇気』

というものが結構取り上げている人がいて賛美の声が多い中、自分は少し疑問に思うことがあるので少し書いてみる。

 まず『嫌われる勇気』を要約すると

①色々難しく考えすぎ

②自分と他人を切り離せ

③トラウマなんてない

④承認欲求を捨てる←これが特に気になるところ

⑤誉めるな、感謝をしろ

⑥仲間に貢献しろ

 

①と②の内容は直結して『だいたいが対人関係の悩み』という。

これはその通りだと思う。人間は社会に生きている内は必ず人と関わっている。その中で自分と考えが合わない人間、生理的に受け付けない人間なんて否応にも出てくる。

でも『ソリが合わないのは自分の課題ではない』『評価の有無は他人の課題、自分ではどうにもできない』と言うのは確かにその通りだ。

例えば嫌な人間がいて、そいつ自身をどうこうするのは難しい(他人を変えることなんてほぼ不可能)。だからそいつの考えに対して怒りを募らせるのは時間の無駄で対処法を考える方がまだ建設的ではある。

③は『トラウマを理由に前進しないだけ。それを言い訳に現状維持をしたいだけ(言い訳の道具を用意している)』というもの。だから克服できるからトラウマなんてものはない。これも言いたい事は分かる。

(また『怒り』などは道具でしかない、という事も記載しているらしい)

 

が、自分はトラウマは実際に存在すると思っている。

上記の言いたい事は分かるが、克服の成否とは別に『トラウマ』というものは存在している。まぁ、これは『言い訳の道具にするな』というの要点だから『トラウマなんてない』というのはただのキャッチコピーで使っただけかもしれないが。

 

④、これが現代社会において一番人の心に入り込んでいる問題だと思う。

ネットという承認欲求の場が公開されているから。

昨今、数値だけを気にして投稿作品がおかしくなったり、炎上ツイートがあったり、数値が低いせいで作品投稿をやめたり、とにかくやることの原理が「数値」基準にされているような感覚は確かにある。

その本では『承認欲求は捨てろ。足枷にしかならない』と言われているが、ここで自分は疑問に思った。

 

「怒りや憎しみは『道具』でしかなくコントロールできる、と言っているのに、『承認欲求』は同じ扱いではないのか?」

 

と言う点だ。③の時に書いたが、感情はコントロールできる。それは間違っていないと思う。完全制御は難しいかもしれないが可能ではある。

じゃあ『承認欲求』は何故完全に捨てなければならないのか?

それも『道具』の一つで利用できるのではないのか?

それが自分がこの本に対して強く疑問に思うところである。

(あくまでも色々紹介動画を見た中での判断なので、本当は違った事を書いてあるかもしれないがそこはご了承ください)

 

『承認欲求』を追及する前にひとまず⑤に行こう。

「誉めるのではなく感謝をしろ」と言うのがあるのだが、これは「誉めると行動基準が誉められるための行動になる」というものだからだ。

それは何となく分かる。誉められると嬉しいし「もっと頑張ろう」という気持ちが一番出るのが「誉める」だからだ。だから「感謝」にしろ、というものだ。

しかし、これも自分の中でやや疑問が残る。

「誉める」と「感謝」は同じ道具なのか?

私個人では違って見える。たぶんドライバーという括りの中で、+かーかの違いくらい。用途は似てるけど場合によっては使い分けるだろう、と。

かなり限定的なシチュエーションだが、制作者と制作物と客がその場にいたとして、賞賛でなく感謝に変えた場合、客が「この作品を作ってくださってありがとうございます」という事だ。

何か気持ち悪さが残らないだろうか。宗教的というか人間味がないというか。

普通に「綺麗な作品ですね」と述べた方が良いのではないだろうか。

⑤要点は「誉めると承認欲求を増幅させるから」という観点。

だから疑問に思う。この情報は『承認欲求を完全悪』として見ているからだ。

そもそも自分は『承認欲求はあってしかるべ』と考えている。

『承認欲求』は確かに劇薬ではある。それは認める。

じゃあ切り捨てていいものか、と言われると答えはNOだ。

『承認欲求』は向上心と行動原理のきっかけになると思っている。

前提として「行動基準が承認欲求になってはいけない」という点。

だからこれも『道具』として利用しても良いものなのだ。

 

最後に『幸福とは、仲間に貢献できている感覚』と言うのがあった。

これも言いたい事は分かった。「自分が皆がいる中できっと役に立っている」という自己完結能力があれば他者がどう思ってようが前に進めるからだ。

 

だけどこれも疑問に思う。何故か。

 

「複数の人間がいる中に立っているにも関わらず周りを見ていないから」だ。

それはそもそも、その中に立つ意味があるのだろうか?

『貢献できている感覚』と言うのは悪く言えば「自己満足」だ。

他者がどう思っていようが関係ない、という考えにも行き着く。

では「いや他人に感謝されればやる気が起きるじゃん?」と言う面で見ると、それは「感謝されるという承認欲求」になっている。

 

結局これは「他者を見ずに自己満足で生きるか」「承認欲求を抱えて他者と生きるか」という2択の結論になる、と言うのが自分が得たものだった。

 

そもそも『幸福とは、仲間に貢献できている感覚』というのはだいたいには当てはまるかもしれないが全てではないと思っている。

例えば『作品』を作る人達はどうだろう。

クリエイターたちはみんな上記のことを思いながら作品を作っているのだろうか。

 

 

まぁ、この心理学はあくまでも「防衛機構の一つ」として見る物であって、そのまま取り入れるには少々疑問が残るものだった。

 

 

紹介した人達(と視聴者)のほとんどは「納得した、共感できる」みたいな感じだったが、自分はどんどんと疑問が沸き上がってしまった。

 

 

 

(追記)

あぁ、でもこれは『雁字搦めにされた人社会の中でどうしても逃げられない時の防衛機構術』とタイトルを変えれば少し納得できるかな。限定的な使いどころで。